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「偏差値で計れない個性」を伸ばす「新しい学び」
──「指導困難校」の汚名を返上した都立足立新田高校の取り組み──
東京都立足立新田高校

かつて「指導困難校」といわれた東京都立足立新田高校が、「学校再生」で掲げたのは「多様な能力を持つ生徒を埋もれさせない」ことである。
その前提として生徒の生活指導を徹底する一方、「特色のある学校づくり」に全力を挙げた。
都立高校で初めて「学系」に分けた選択科目を導入。
生徒を教室から解放し、実践型の授業を取り入れる大胆な発想は着実に成果を生み、 一時は中退率が50%を超えた同校が、どん底状態から抜け出す力になった。
今なお「再生」の手を緩めない同校を支えるのは、「偏差値で計れない個性」を伸ばす「学びの保障」である。
その前提として生徒の生活指導を徹底する一方、「特色のある学校づくり」に全力を挙げた。
都立高校で初めて「学系」に分けた選択科目を導入。
生徒を教室から解放し、実践型の授業を取り入れる大胆な発想は着実に成果を生み、 一時は中退率が50%を超えた同校が、どん底状態から抜け出す力になった。
今なお「再生」の手を緩めない同校を支えるのは、「偏差値で計れない個性」を伸ばす「学びの保障」である。
入試は定員割れ 3年間で入学者の半数以上が退学
東京都の東北部、足立区新田にある都立足立新田高校の先生たちが、生徒の“異変”に気付いたのは、1994年度の新入生を迎えて間もなくだった。
学習意欲に欠け、計算力や読解力など基礎力が弱い。授業中に抜け出す。土足で教室に上がり、ゴミを散らかす。暴力沙汰こそほとんどなかったが、先生の注意に反抗する。絶えない廊下の落書き それは今までに見たこともない光景だった。
足立新田高校は歴史のある伝統校ではない。それ以前も学力では下位の生徒が集まり、やる気がなくさぼり癖のある生徒もいた。ただ、校内が荒れていたわけではない。
それが94年度に都立高校の入学者選抜方法がグループ選抜から単独選抜になった後、荒れが露呈する。それまで偏差値による輪切りで足立新田高校に来ていた生徒がよりレベルの高い高校に進学。さらに拍車をかけたのが、立地条件の悪さだ。足立区の西南端に位置する、隅田川と荒川の中州という孤立した場所にあり、2000年に現在の東京メトロ南北線が全線開通するまで都心や学区内の子どもたちが通うには交通の便の悪い地域であった。
そのため、足立新田高校は定員割れとなり、他の下位校に進んでいた生徒が入学するようになったのである。中学校の内申書が“オール1”の生徒も珍しくなかった。
この時期の学校は次のような状況だった。入試の倍率は都立高校で最も低く、男子の定員割れは94年度から3年間も続いている。女子も1倍強といったところで、男女共ほぼ全員入学という状況だった。
さらに問題だったのは中途退学率である。
校内の荒れが目立ちだした94年度の入学者が定員240人に対し236人で、このうち卒業まで残っていた生徒はわずか116人に過ぎない。3年間で半数以上の120人の生徒が学校を去っているわけだ。翌95年度も入学者の50%に近い119人が中退。その後も中退率は30%から40%の後半で停滞していた。
当時、東京都教育委員会に提出された報告書には「遅刻・早退・欠席や授業の中抜けなどによって教科の欠時数が増加し、進級の見込みが立たなくなり中退するケースが多い」と記されている。「学力格差」を通り越して、学校は存続を危ぶまれるほどの状況に追い込まれていた。
そうした中で「学校再生」の取り組みは始まる。「中途退学者を減らしできるだけ多くの生徒を卒業させる」を目標としたところに事態の切実さがあった。
学習意欲に欠け、計算力や読解力など基礎力が弱い。授業中に抜け出す。土足で教室に上がり、ゴミを散らかす。暴力沙汰こそほとんどなかったが、先生の注意に反抗する。絶えない廊下の落書き それは今までに見たこともない光景だった。
足立新田高校は歴史のある伝統校ではない。それ以前も学力では下位の生徒が集まり、やる気がなくさぼり癖のある生徒もいた。ただ、校内が荒れていたわけではない。
それが94年度に都立高校の入学者選抜方法がグループ選抜から単独選抜になった後、荒れが露呈する。それまで偏差値による輪切りで足立新田高校に来ていた生徒がよりレベルの高い高校に進学。さらに拍車をかけたのが、立地条件の悪さだ。足立区の西南端に位置する、隅田川と荒川の中州という孤立した場所にあり、2000年に現在の東京メトロ南北線が全線開通するまで都心や学区内の子どもたちが通うには交通の便の悪い地域であった。
そのため、足立新田高校は定員割れとなり、他の下位校に進んでいた生徒が入学するようになったのである。中学校の内申書が“オール1”の生徒も珍しくなかった。
この時期の学校は次のような状況だった。入試の倍率は都立高校で最も低く、男子の定員割れは94年度から3年間も続いている。女子も1倍強といったところで、男女共ほぼ全員入学という状況だった。
さらに問題だったのは中途退学率である。
校内の荒れが目立ちだした94年度の入学者が定員240人に対し236人で、このうち卒業まで残っていた生徒はわずか116人に過ぎない。3年間で半数以上の120人の生徒が学校を去っているわけだ。翌95年度も入学者の50%に近い119人が中退。その後も中退率は30%から40%の後半で停滞していた。
当時、東京都教育委員会に提出された報告書には「遅刻・早退・欠席や授業の中抜けなどによって教科の欠時数が増加し、進級の見込みが立たなくなり中退するケースが多い」と記されている。「学力格差」を通り越して、学校は存続を危ぶまれるほどの状況に追い込まれていた。
そうした中で「学校再生」の取り組みは始まる。「中途退学者を減らしできるだけ多くの生徒を卒業させる」を目標としたところに事態の切実さがあった。
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