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学校と大学・地域社会の連携が“いい先生”を育む
── 教育委員会の視点から見た教員養成の可能性──
門川大作[京都市教育長]

教員の質の確保と維持の問題は、地方行政にとって最大の関心事の一つだろう。
地方分権の時代、数々の先進的な取り組みで「教育の再生」に成果を出している京都市の門川大作教育長は、この問題をどう捉えているのだろうか。
京都教師塾や大学との連携による「連合」教職大学院を企画支援するなど教員養成に深くコミットする門川教育長に、地方行政が主導する教員養成の在り方と可能性についてうかがった。
地方分権の時代、数々の先進的な取り組みで「教育の再生」に成果を出している京都市の門川大作教育長は、この問題をどう捉えているのだろうか。
京都教師塾や大学との連携による「連合」教職大学院を企画支援するなど教員養成に深くコミットする門川教育長に、地方行政が主導する教員養成の在り方と可能性についてうかがった。
教員養成の「質の確保」をめぐる論議がクローズアップされています。
この問題をどう見ていますか。
この問題をどう見ていますか。
一つ、気になっていることがあります。それは「最近の教員は資質が落ちた」という前提に立って、教員養成論議が行われていることです。私は30数年間教育行政に携わり実感するのは、昔も今も優秀な先生は多いし、課題を抱える先生もいるということです。1人の先生にも良いところもあれば、悪いところもある。それをひと括りに「質が落ちた」と決めつけて教員養成を議論することは大変問題があります。国際比較をしても日本の教員の質は決して低くない。
ただ、近ごろは社会状況の変化で学校や教員に対する要求が多様でかつ高度になっています。家庭や地域社会の教育力が低下していることもある。しつけや食育など、本来、家庭や地域コミュニティでやるべきことまで学校の責任として押しつけられている。そうした時代の激変や社会の新たな要請についていけていない教員がいることも確かです。
発達障害の子どもの教育保障なども含めて、時代や社会の変化に対応できる実践力や専門性を付けるために教員養成の在り方を問い直すことは重要です。「教員の資質が落ちた」といった短絡した発想で教育を改革することには反対です。社会総がかりで、お互いが努力して教育者が尊ばれる社会をつくらねば、教育に未来はないと思っています。
ただ、近ごろは社会状況の変化で学校や教員に対する要求が多様でかつ高度になっています。家庭や地域社会の教育力が低下していることもある。しつけや食育など、本来、家庭や地域コミュニティでやるべきことまで学校の責任として押しつけられている。そうした時代の激変や社会の新たな要請についていけていない教員がいることも確かです。
発達障害の子どもの教育保障なども含めて、時代や社会の変化に対応できる実践力や専門性を付けるために教員養成の在り方を問い直すことは重要です。「教員の資質が落ちた」といった短絡した発想で教育を改革することには反対です。社会総がかりで、お互いが努力して教育者が尊ばれる社会をつくらねば、教育に未来はないと思っています。
京都市は、教師塾や大学と組んだ「連合」教職大学院の設立など、
採用前の教員養成にも深く関わっています。
これも実践力や専門性を養うためですか。
採用前の教員養成にも深く関わっています。
これも実践力や専門性を養うためですか。
日本の教員養成の課題は、教員免許の取得が教員の質を保証するものになっていないことです。教員免許が単なる「単位履修証明書」でしかない。理論と実践といった時、実践面での体験や、その検証が決定的に不足しています。
教員ほど実践を通して力が付く仕事は他にはないでしょう。従って“いい先生”は採用試験の工夫と採用前の取り組みも含め、現場で育てるしかないと、私は考えています。
適切な例か分かりませんが、寿司職人を育てるのに、寿司の歴史や文化、栄養学などを徹底的に学んだからといって、すぐには寿司を握れないのと同じですよ。お客と向き合ってその反応を見ながら握ってこそ美味しい寿司を提供できるんです。
京都市では、採用前の教員希望者が実践力を身に付けられるような場を多く提供してきました。57もの大学と個別協定を結んでいるのもそうです。授業研究などでそれぞれの人的・知的資源を交流させるのが目的で、その一貫として約2000人の学生が市立学校で授業や部活動の補助などのボランティア活動などをしている。市教委の現職教員研修を学生に開放、逆に大学の講座へ教員を派遣してもいます。
大事なのは「混ぜる」という発想です。市教委や市立学校、大学が連携・融合し足りないところを補っていく。教員の質を確保するといっても、学校現場だけでは手に余ることもあるし、教員養成機関の大学にもできることとできないことがありますからね。そうやって学校現場と大学教員・学生がお互いに専門性を深め、実践力や指導力を高めていくわけです。
市教委と学校、大学が「相互乗り入れ」することには、最初は戸惑いもありました。異物が混じり込むようなものですからね。お互い「キズも付く」。しかし、そのうちに「気付き」が生まれ、それが自己変革をもたらす。お互いに閉鎖的な体質を改め、「優れた教員を養成する」という共通認識の下、不足しているところを批判し合うのでなく、補い合うようになったのです。連携とは、お互いの「自己変革から」、そして狭い役割分担論ではなく「重なり合うこと」と実感しますね。
このように、教員の養成段階から市教委が主体的にコミットする。それが教員志望者の質と量を高めることにもなる。これまでは教員養成は大学の仕事で、自治体の関与を忌避される傾向がありましたが、教員養成の喫緊性と国の抑制がなくなった今、自治体が教員養成に一歩踏み出すことはより必要になってくるのではないでしょうか。そうした試みの一環として、京都教師塾や「連合」教職大学院の創設等があります。
教員ほど実践を通して力が付く仕事は他にはないでしょう。従って“いい先生”は採用試験の工夫と採用前の取り組みも含め、現場で育てるしかないと、私は考えています。
適切な例か分かりませんが、寿司職人を育てるのに、寿司の歴史や文化、栄養学などを徹底的に学んだからといって、すぐには寿司を握れないのと同じですよ。お客と向き合ってその反応を見ながら握ってこそ美味しい寿司を提供できるんです。
京都市では、採用前の教員希望者が実践力を身に付けられるような場を多く提供してきました。57もの大学と個別協定を結んでいるのもそうです。授業研究などでそれぞれの人的・知的資源を交流させるのが目的で、その一貫として約2000人の学生が市立学校で授業や部活動の補助などのボランティア活動などをしている。市教委の現職教員研修を学生に開放、逆に大学の講座へ教員を派遣してもいます。
大事なのは「混ぜる」という発想です。市教委や市立学校、大学が連携・融合し足りないところを補っていく。教員の質を確保するといっても、学校現場だけでは手に余ることもあるし、教員養成機関の大学にもできることとできないことがありますからね。そうやって学校現場と大学教員・学生がお互いに専門性を深め、実践力や指導力を高めていくわけです。
市教委と学校、大学が「相互乗り入れ」することには、最初は戸惑いもありました。異物が混じり込むようなものですからね。お互い「キズも付く」。しかし、そのうちに「気付き」が生まれ、それが自己変革をもたらす。お互いに閉鎖的な体質を改め、「優れた教員を養成する」という共通認識の下、不足しているところを批判し合うのでなく、補い合うようになったのです。連携とは、お互いの「自己変革から」、そして狭い役割分担論ではなく「重なり合うこと」と実感しますね。
このように、教員の養成段階から市教委が主体的にコミットする。それが教員志望者の質と量を高めることにもなる。これまでは教員養成は大学の仕事で、自治体の関与を忌避される傾向がありましたが、教員養成の喫緊性と国の抑制がなくなった今、自治体が教員養成に一歩踏み出すことはより必要になってくるのではないでしょうか。そうした試みの一環として、京都教師塾や「連合」教職大学院の創設等があります。
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![図表[1]京都市における教員養成・指導力向上体制](img/kadokawa_fig01.gif)