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共有を意図的に進めるコミュニケーション
──「寛容性」を育むことの大切さ──
池田謙一[東京大学大学院人文社会系研究科教授]

外来語である「コミュニケーション」の原義には「意味を共有する」というニュアンスがあるという。
さまざまな生活場面でコミュニケーションが問われている現在、重視すべきは異質な他者との意味の共有を意図的に進めることであるとするコミュニケーション理論が専門の池田謙一先生に、コミュニケーション研究の最前線と先生が行った携帯メール利用の実証研究についてうかがった。
さまざまな生活場面でコミュニケーションが問われている現在、重視すべきは異質な他者との意味の共有を意図的に進めることであるとするコミュニケーション理論が専門の池田謙一先生に、コミュニケーション研究の最前線と先生が行った携帯メール利用の実証研究についてうかがった。
見落とされてきた「意味の共有」というコミュニケーションの原義
コミュニケーションという言葉を辞書で引くと、例えば次のように定義されています。
「社会生活を営む人間の間に行われる知覚・感情・思考の伝達。言語・文字その他視覚・聴覚に訴える各種のものを媒介とする」(『広辞苑 第五版』)
これを見ると分かるように、「何事かを伝達する」という側面が強調されています。しかしここで抜け落ちている要素がある。それは「意味を共有する」という側面です。
“communication”の語源はラテン語ですが、OED(オックスフォード英英辞典)によると、動詞の“communicate”には「多くの人に共通のものとすること、分かち合うこと、分け与えること、分けること」というニュアンスの原義があります。どうやら、英語の“communication”という言葉が日本に入ってきたときに、原義の一部が抜け落ちてしまったようです。
インフォメーションという言葉の移入も似たような経緯をたどりました。これは「諜報」という訳語を経て「情報」になったのですが、ここでもやはり「伝達」の側面が強調されています。しかし、“information”の原義を分解すると「意味を形成する」(formation)という側面もあるのです。
すなわち、何事かをこちらからあちらへ伝達したときに、意味を形成して初めて、その場にいる人たちが共有できる。ところが、インフォメーションやコミュニケーションという外来語が定着する過程で、何事かを「抜き出し」たり「送りつけ」たりする側面ばかりが強調され、意味を「形成」し「共有」する側面が抜け落ちてしまったわけです。
これは恐らく、明治初期の日本の国家形成期にも、ラジオ放送が始まってマスメディアが発達した時期にも、意味の伝達の方に力点が置かれていて、意味を共有することはあまり考慮されていなかったからではないでしょうか。
しかし、明らかに日常のコミュニケーションを考えた場合、ただ一方的に伝達するだけでは駄目で、意味を共有し相手が分かることを話すのでなければ、うまくいきません。
実はアメリカでも、意味の共有は対人コミュニケーションの中であまり重視されてきませんでした。アメリカ的な文脈でいうと、コミュニケーションとは意味を人に伝えて、なおかつ人を動かす技術だ、ということが強調され過ぎています。研究の動向でもそうで、社会心理学におけるコミュニケーションの研究というと、説得や交渉といった技術が主流を占めており、意味の共有の研究はごくわずかです。
一方で、日本人には伝統的な素地として「和を重んじる」精神がありますから、共有の大切さは分かってはいるものの、事実としては「共有を意図的に進めてゆく」コミュニケーションの仕方は育んできませんでした。「以心伝心」という言葉が端的に示すように、意味は初めから共有されているので話すまでもない、という風土が伝統的にあったからです。
しかしその伝統が崩れ出しています。社会的な流動性が高まって、日本人の多くが、もともと生まれた所には住んでいない。かつてのような血縁・地縁に支えられた結束の強いコミュニティは崩壊し、社会的規範の共有が薄れて、以心伝心もあやしくなりつつあります。そろそろ日本人も「共有を意図的に進めてゆく」コミュニケーションの仕方を育むべき時期にさしかかっているのではないでしょうか。
「社会生活を営む人間の間に行われる知覚・感情・思考の伝達。言語・文字その他視覚・聴覚に訴える各種のものを媒介とする」(『広辞苑 第五版』)
これを見ると分かるように、「何事かを伝達する」という側面が強調されています。しかしここで抜け落ちている要素がある。それは「意味を共有する」という側面です。
“communication”の語源はラテン語ですが、OED(オックスフォード英英辞典)によると、動詞の“communicate”には「多くの人に共通のものとすること、分かち合うこと、分け与えること、分けること」というニュアンスの原義があります。どうやら、英語の“communication”という言葉が日本に入ってきたときに、原義の一部が抜け落ちてしまったようです。
インフォメーションという言葉の移入も似たような経緯をたどりました。これは「諜報」という訳語を経て「情報」になったのですが、ここでもやはり「伝達」の側面が強調されています。しかし、“information”の原義を分解すると「意味を形成する」(formation)という側面もあるのです。
すなわち、何事かをこちらからあちらへ伝達したときに、意味を形成して初めて、その場にいる人たちが共有できる。ところが、インフォメーションやコミュニケーションという外来語が定着する過程で、何事かを「抜き出し」たり「送りつけ」たりする側面ばかりが強調され、意味を「形成」し「共有」する側面が抜け落ちてしまったわけです。
これは恐らく、明治初期の日本の国家形成期にも、ラジオ放送が始まってマスメディアが発達した時期にも、意味の伝達の方に力点が置かれていて、意味を共有することはあまり考慮されていなかったからではないでしょうか。
しかし、明らかに日常のコミュニケーションを考えた場合、ただ一方的に伝達するだけでは駄目で、意味を共有し相手が分かることを話すのでなければ、うまくいきません。
実はアメリカでも、意味の共有は対人コミュニケーションの中であまり重視されてきませんでした。アメリカ的な文脈でいうと、コミュニケーションとは意味を人に伝えて、なおかつ人を動かす技術だ、ということが強調され過ぎています。研究の動向でもそうで、社会心理学におけるコミュニケーションの研究というと、説得や交渉といった技術が主流を占めており、意味の共有の研究はごくわずかです。
一方で、日本人には伝統的な素地として「和を重んじる」精神がありますから、共有の大切さは分かってはいるものの、事実としては「共有を意図的に進めてゆく」コミュニケーションの仕方は育んできませんでした。「以心伝心」という言葉が端的に示すように、意味は初めから共有されているので話すまでもない、という風土が伝統的にあったからです。
しかしその伝統が崩れ出しています。社会的な流動性が高まって、日本人の多くが、もともと生まれた所には住んでいない。かつてのような血縁・地縁に支えられた結束の強いコミュニティは崩壊し、社会的規範の共有が薄れて、以心伝心もあやしくなりつつあります。そろそろ日本人も「共有を意図的に進めてゆく」コミュニケーションの仕方を育むべき時期にさしかかっているのではないでしょうか。
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