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転換期にある教師像
──「献身的教師像」を越えて──
久冨善之[一橋大学大学院社会学研究科教授]

教員免許更新制度の導入や免職も視野に入れた教員評価制度の導入など、苛烈な改革の進行に教師の日常は揺らいでいる。
現場の教師たちは、教壇に立つために不可欠な、教師としての自信をどう保持し、子どもたちと向き合っているのか。
教師の専門性とアイデンティティについて国際比較の実証研究を行なった久冨善之先生に、教師が置かれている現状を検証していただいた。
現場の教師たちは、教壇に立つために不可欠な、教師としての自信をどう保持し、子どもたちと向き合っているのか。
教師の専門性とアイデンティティについて国際比較の実証研究を行なった久冨善之先生に、教師が置かれている現状を検証していただいた。
キーワード=献身的教師像、二元化戦略、バーンアウト
成果を明示しにくい教師という仕事の難しさ
教師という仕事には元来、宿命的な困難がつきまとっています。
まず、「教える」という行為に起因する難しさがあります。自分が理解しているということと、相手が理解してくれるということとはまったく別の問題です。相手が理解してくれるかどうかは、どのように巧みに働きかけたとしても、最終的には相手頼みとしかいえません。
そして、近代学校というシステムに起因する難しさもあります。緒方洪庵の適塾など幕末の私塾には、全国から「その先生に学びたい」という強い意思をもった学生が集まってきました。また、職人の世界での徒弟制度でも、この親方に弟子入りして技を覚えようという気持ちが働いていたでしょう。
ところが明治時代以降の近代学校はどうでしょうか。生まれてきたすべての子どもたちに教育を受けさせる制度なので、別に学校に来て何を学びたいと思っているわけでもない子どもを含めて、ある年齢に達すると一斉に集められます。
もちろん、「子どもはもともと知的好奇心にあふれ勉強が好きなものだ」というのも一面の真理でしょう。しかしたいていの子どもは、放っておけば勉強より遊びを好みます。学校の授業は子どもにとって面白くないことも多い。しかし知的な課題の達成には集中力が要求されます。勉強する動機や意思が必ずしも強いとはいえない子どもたちに対して、好むと好まざるとにかかわらず課題を与え、何かを学び取り身に付けるために意識を集中させる。教師は日々、こうした至難の業に取り組んでいます。
しかも子どもたちの資質は千差万別。のみこみの早い子もいれば、遅い子もいます。一斉に集められたさまざまな資質や性格の子どもたち数十名に対して、授業が始まったら先生の話を静かに聞くように集団規律を維持し、しかも子どもたち全員を特定のレベルまでの学習目標に到達させるのは、並大抵の苦労ではありません。
それに「教える」という行為は、通常のコミュニケーションからすればとても考えられないほど押しつけがましい。全幅の信頼関係とまではいかないにしても、まあこの人のいうことなら聞いておこう、と思わせるくらいの信頼と権威が教師の側にないと、それは成立しません。
しかし信頼と権威は、相手が認めてくれて初めて成り立つものです。いくら威張っても相手が認めてくれなければ話にならない。すると、どうしても教師にはあらかじめ信頼と権威が備わっていなければなりません。
また、教師には自分が教師としてある程度自信を持って「やれている」と思える自覚が必要です。このことは、私たちが行った調査の結果(図表1)を見ても、5か国とも概ね共通しているといえます。それでも、日本、韓国といった東アジアと比べて、スウェーデン、イギリス、アメリカでは個人主義的な文化的風土もあるのか、教師として「やれている」という「強い自信」によって、教職アイデンティティが支えられています。一方、日本は自信を失っている教師が、他の国に比べてやや多くなっています。
まず、「教える」という行為に起因する難しさがあります。自分が理解しているということと、相手が理解してくれるということとはまったく別の問題です。相手が理解してくれるかどうかは、どのように巧みに働きかけたとしても、最終的には相手頼みとしかいえません。
そして、近代学校というシステムに起因する難しさもあります。緒方洪庵の適塾など幕末の私塾には、全国から「その先生に学びたい」という強い意思をもった学生が集まってきました。また、職人の世界での徒弟制度でも、この親方に弟子入りして技を覚えようという気持ちが働いていたでしょう。
ところが明治時代以降の近代学校はどうでしょうか。生まれてきたすべての子どもたちに教育を受けさせる制度なので、別に学校に来て何を学びたいと思っているわけでもない子どもを含めて、ある年齢に達すると一斉に集められます。
もちろん、「子どもはもともと知的好奇心にあふれ勉強が好きなものだ」というのも一面の真理でしょう。しかしたいていの子どもは、放っておけば勉強より遊びを好みます。学校の授業は子どもにとって面白くないことも多い。しかし知的な課題の達成には集中力が要求されます。勉強する動機や意思が必ずしも強いとはいえない子どもたちに対して、好むと好まざるとにかかわらず課題を与え、何かを学び取り身に付けるために意識を集中させる。教師は日々、こうした至難の業に取り組んでいます。
しかも子どもたちの資質は千差万別。のみこみの早い子もいれば、遅い子もいます。一斉に集められたさまざまな資質や性格の子どもたち数十名に対して、授業が始まったら先生の話を静かに聞くように集団規律を維持し、しかも子どもたち全員を特定のレベルまでの学習目標に到達させるのは、並大抵の苦労ではありません。
それに「教える」という行為は、通常のコミュニケーションからすればとても考えられないほど押しつけがましい。全幅の信頼関係とまではいかないにしても、まあこの人のいうことなら聞いておこう、と思わせるくらいの信頼と権威が教師の側にないと、それは成立しません。
しかし信頼と権威は、相手が認めてくれて初めて成り立つものです。いくら威張っても相手が認めてくれなければ話にならない。すると、どうしても教師にはあらかじめ信頼と権威が備わっていなければなりません。
また、教師には自分が教師としてある程度自信を持って「やれている」と思える自覚が必要です。このことは、私たちが行った調査の結果(図表1)を見ても、5か国とも概ね共通しているといえます。それでも、日本、韓国といった東アジアと比べて、スウェーデン、イギリス、アメリカでは個人主義的な文化的風土もあるのか、教師として「やれている」という「強い自信」によって、教職アイデンティティが支えられています。一方、日本は自信を失っている教師が、他の国に比べてやや多くなっています。
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教師というのは「自分が教えたことによって子どもたちの力がこれだけ伸びた」と示すことがなかなか難しい職業です。例えば医師なら「あの先生のおかげでこの病気が治った」と感謝されることはあるでしょう。しかし「あの先生のおかげでこの知識や技能が身に付いたのかどうか」はそれほどはっきりしません。子どもはいつの間にか自力で身に付けたように思っているかもしれません。また、ある時のテストでは答えられたとしても、1か月後には剥がれ落ちて忘れてしまっているかもしれないし、逆にその時点では成果として表れなくても、5年後、10年後に成果として見えてくることだってあります。教育の成果は、たやすく確定できません。
教師の仕事は、その成果の明示が難しい。教師同士は互いの力量がおおよそ分かるようですが、それをどうやって測るのか、どこに明示的に表れるのか、となるとなかなか特定できません。教師という仕事はその難しさでは医師や弁護士などに劣るとは思えませんが、それらに比べ専門職として確立してこなかったのは、専門性や専門的力量の内実を自己にも他者にも明示しきれないという職業的特徴があるからでしょう。
教師の仕事は、その成果の明示が難しい。教師同士は互いの力量がおおよそ分かるようですが、それをどうやって測るのか、どこに明示的に表れるのか、となるとなかなか特定できません。教師という仕事はその難しさでは医師や弁護士などに劣るとは思えませんが、それらに比べ専門職として確立してこなかったのは、専門性や専門的力量の内実を自己にも他者にも明示しきれないという職業的特徴があるからでしょう。
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![図表[1]教職アイデンティティの5か国比較](img/kudomi_fig01.gif)