• 中学●年生
  • 教育動向

伊藤博文は何をした人? エピソードや功績、生い立ちを簡単に解説

伊藤博文伊藤博文

伊藤博文の生涯

伊藤博文(いとうひろぶみ)は、初代内閣総理大臣を務めた人物で、明治維新後の日本を牽引し、日本を近代化に導いた立役者です。大久保利通の死後は内務卿を引き継いで、政府の最高指導者として腕を振るいます。

華族令や内閣制度の創設、枢密院議長として憲法制定などに取り組みました。初代韓国総監として韓国統治にも尽力をしましたが、韓国で青年に狙撃され死去。享年は69歳でした。

伊藤博文のエピソード5つ

百姓として生まれた

伊藤博文は長州藩(現在の山口県)出身です。林十蔵という農民の長男として誕生しました。父親は萩藩の中間(ちゅうげん)である伊藤家に奉公をしており、父が伊藤家の養子になったことから伊藤博文も下級武士の身分を得ました。中間とは、門番などの雑用を行う武家の奉公人です。

当時の日本は私たちの想像を遙かに上回る身分社会で、生まれた身分を変えることはほとんどできませんでした。伊藤博文は、父親が中間の養子になるという幸運があったものの、中間は武士の中では非常に低い身分です。中間の息子が、立身出世して日本の頂点にたったのですから、豊臣秀吉のようなとんでもない大出世です。

松下村塾で学んだ

伊藤博文は高杉晋作(たかすぎしんさく)や久坂玄瑞、木戸孝允(きどたかよし)らが学んだ松下村塾に入門し、吉田松陰の教育を受けました。松下村塾は尊皇攘夷思想の急進派です。伊藤博文も、高杉晋作や久坂玄瑞らと友にイギリス公使館焼き討ちに参加します。彼らの焼き討ちによりイギリス公使館は全焼しました。

松下村塾の師匠吉田松陰や、同塾の久坂玄瑞らは伊藤博文を高く評価していたといいます。吉田松陰が久坂玄瑞に宛てた手紙にはこのように書かれていました。

「才劣り学幼きも、率直にして華なし、僕頗る(すこぶる)これを愛す」
「利助(伊藤博文のこと)亦進む(またすすむ)、中々周旋家(政治家)になりそうな」

吉田松陰の手紙にあるように、明治維新後の伊藤博文は政治家としての道を歩むことになります。

イギリス留学をしている

1863年、伊藤博文が22歳のときにイギリスに留学しました。ロンドンで英語を学び数か月で日常会話ができるようになり、手紙も読めるようになったそうです。伊藤博文が留学していた1863年は生麦事件をきっかけにした薩英戦争が勃発。その二ヶ月後には、長州藩が朝廷の命令により外国船を砲撃するなど、攘夷思想が高まり外国人排斥の風潮が色濃い時期でした。
イギリスで、長州藩による外国船砲撃を知った伊藤博文は慌てて帰国しますが、外国との戦争は避けられず、長州藩はイギリス、フランス、アメリカ、オランダの四国連合艦隊に敗北を喫します。この際の講和の通訳を務めたのは伊藤博文です。

何度も内閣総理大臣になっている

伊藤博文は44歳で初代総理大臣を務め、その後3度も総理大臣を務めます。伊藤博文といえば何度も総理大臣になったことが脚光を浴びがちですが、実は日本の最年少総理大臣は伊藤博文。最初の総理大臣に就任したときの44歳という記録は未だ破られていません。

なお明治維新後、内閣制度が創られたのは1884年のこと。明治維新が1869年ですので、15年間は大久保利通などの明治維新の功労者が実権を握っていました。伊藤博文が権力の中枢で活躍するのは大久保利通の死去後です。

憲法制定を主導した

伊藤博文は明治政府内で、英語能力の高さを評価されて外国事務掛に任命されました。そして岩倉使節団の副使に任命されて再び欧州に向かいます。伊藤博文の目的はドイツ憲法の研究でした。

明治維新後、日本では自由民権運動が高まっており、政府は「10年後に国会を開設する」と約束をしました。1881年のことです。

そこで政府は伊藤博文に外国で
の憲法に関する調査を命じました。伊藤博文は翌年に帰国すると華族令を制定。貴族院を創るために、華族制度を整えました。そして1885年に内閣制度を制定して、内閣総理大臣に就任します。
伊藤博文が主導した憲法が発布されたのは1889年のことです。このときに発布された憲法が「大日本帝国憲法」。大日本帝国憲法は、天皇が国の元首として統治をするというものでした。

伊藤博文から学べること

伊藤博文から学ぶことは、行動から学び、考えを変えていく柔軟さです。

伊藤博文の父親が中間の伊藤家の養子に入ったことで、伊藤博文も下級武士になりました。

1856年、伊藤博文が15歳の折りには、長州藩の命令によって浦賀の警備にあたります。その翌年に松下村塾に入塾。外国の脅威を目の当たりにして、危機感を抱いた若者らしい行動です。そして高杉晋作らとともにイギリス公使館を焼き討ちにしてしまいました。長州藩士であり、後の初代総理大臣ともあろう人物が、一種のテロ行為を行なってしまったのです。

ところがその翌年にイギリス留学(幕府の目を盗んでの密航)に向かいます。おそらく、二十代前半の若者だった彼の中では、外国に対する怒りや憤りと、広い世界に対する憧れという、相反する感情が同居していたのでしょう。結果的に伊藤はこの留学を通じて、上海やイギリスの繁栄を目の当たりにし、日本から外国を追い出そうという考え(攘夷論)から開国論に転じていきます。一度は傾倒した考えを捨て、新たな経験や学びをもとに、考えを切り替えていくことは激動の幕末はもちろん、現代においても大切な姿勢です。

この伊藤博文の行動が、後の政治家人生に大きな影響を与えます。伊藤博文が明治政府維新後に明治政府内で一定の地位を得られたのは、英語力の高さにあります。岩倉使節団として憲法の研究のためにヨーロッパに行けたのも英語のおかげです。

もちろん、人柄、政治能力があってこその英語能力ですが、明治維新前に英語を会得していたことが彼の人生に大きくプラスに働いたことは疑いようがありません。 自分が固く信じていたことであっても、状況に応じて柔軟に考え方を変える伊藤博文だったからこそ、早い段階でイギリスに留学して英語能力を身につけられたのです。

伊藤博文が生活していた「伊藤博文旧宅」へ行ってみましょう

伊藤博文旧宅は、萩の城下町内に当時の姿のまま残されています。伊藤博文は明治維新まで萩の家を本拠地としていました。敷地内には伊藤博文の銅像と、品川の別宅が移築されています。

近隣には伊藤博文が師事した吉田松陰を祀る松陰神社もあります。萩は古い町並みがきれいに残されている城下町。

維新の立役者たちの生家やゆかりのスポットが点在していますので、伊藤博文旧宅とともに訪れてみましょう。

アクセスマップ

名 称:伊藤博文旧宅
時 間:9時00分~17時00分(外観のみいつでも見学可能)
休 日:無休
料 金:無料
住 所:山口県萩市椿東1515
電 話:0838-25-3139(萩市観光課)
※情報は変更されている場合があります。

監修者プロフィール
門川 良平(かどかわ りょうへい)
教育コンテンツ開発者。教材編集者・小学校教員・学習事業のプロデューサーを経て、現在は、すなばコーポレーション株式会社代表としてゲーム型ワークショップや学習漫画、オンライン授業などの開発を行う。オリジナル開発したSDGs学習ゲームなどの教育コンテンツを軸に日本各地の自治体と連携を進めている。

お子さまに関するお悩みを持つ
保護者のかたへ

このようなお悩みを持つ保護者のかたは多いのではないでしょうか?

\そんな保護者のかたにおすすめなのが/
まなびの手帳ロゴ ベネッセ教育情報サイト公式アプリ まなびの手帳

お子さまの年齢、地域、時期別に最適な教育情報を配信しています!

そのほかにも、学習タイプ診断や無料動画など、アプリ限定のサービスが満載です。

ぜひ一度チェックしてみてください。