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承久の乱とは?|起こった理由や経緯と鎌倉北条氏の台頭について解説

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承久の乱とは?なぜ起こった?後鳥羽上皇による皇権回復の動き

承久の乱は、後鳥羽上皇が再び上皇中心の政治を取り戻すべく、鎌倉幕府を討ち滅ぼそうとして起こした戦いです。

後鳥羽上皇の思惑と勢力拡大

後鳥羽上皇は強大化する鎌倉幕府の存在をおもしろく思っておらず、院政が敷かれていたころのような朝廷の権力を取り戻したいと考えていました。

そこで後鳥羽上皇は、朝廷の影響力を強めようと三代将軍源実朝(みなもとのさねとも)に接近します。

源実朝は「金槐和歌集(きんかいわかしゅう)」を作成したほど和歌の才に恵まれた人物であり、後鳥羽上皇も同じく和歌を得意としていました。それもあってか二人の相性はよかったと見え、後鳥羽上皇は自分の娘を妻として差し出し右大臣に任命するなど、源実朝に対して過分な官位も授けていました。

また、後鳥羽上皇は鎌倉幕府内部の権力争いを尻目に、領地の拡大、軍事力の強化もはかります。

分散していた天皇領をまとめて資金力を確保。さらに従来からある北面の武士(ほくめんのぶし)に加えて、西面の武士(さいめんのぶし)という武士集団も設置します。

後鳥羽上皇は、鎌倉幕府が進める荘園政策にも不快感を覚えていました。これまで各地の荘園は皇室や貴族、寺院に寄進を行っていました。荘園は後鳥羽上皇の収入源でもあったのです。

ところが、鎌倉幕府は荘園に地頭を派遣したため、荘園の寄進が減少してしまいました。西日本の荘園からの寄進はあったものの、東日本の荘園からの寄進が停止したのです。

鎌倉幕府の内紛

これらの理由から、後鳥羽上皇は鎌倉で実権を握る北条氏を排除したいと考えるようになり、鎌倉幕府を打ち倒す機会を狙っていました。

やがて絶好のチャンスが訪れます。1219年、鎌倉幕府では源実朝が源頼家(みなもとのよりいえ)の次男(または三男)、公暁(くぎょう・こうきょう)によって暗殺されたのです。

後鳥羽上皇は、鎌倉幕府の内部で混乱があれば、御家人同士が争い、朝廷がつけいるチャンスが生じるのではと考えました。鎌倉幕府では将軍家ではなく、北条氏が執権として実権を握っていた時代です(ちなみに、当時の執権は北条義時でした)。

承久の乱勃発と敗戦

承久の乱が起きたのは1221年(承久3年)のこと。後鳥羽上皇は有力御家人に対して、義時追討の院宣を出します。また、朝廷からも義時追討の官宣旨が出されました。

後鳥羽上皇軍の大将は藤原秀康(ふじわらのひでやす)。ちょうど京都に滞在していた三浦胤義(みうらたねよし)も京方として兵を率いて参戦しました。

ところが、後鳥羽上皇らが想定していた勢力が味方に付かず、鎌倉に有利な状況になりました。

さらに後鳥羽上皇の読みが外れて鎌倉幕府の御家人たちは結束を強めます。有名な北条政子(ほうじょうまさこ)の演説が絶大な威力を発揮したのです。

源頼朝の妻であった北条政子は、源頼朝らの恩を説き、一致団結するように呼びかけました。執権北条義時は北条政子の演説の三日後、多数の軍勢を京都に差し向けます。

宇治川で対峙した後鳥羽上皇と幕府軍の戦いは一日で決着が付き、後鳥羽上皇の敗北が決定的となりました。

承久の乱後の政治と後鳥羽上皇の島流し

承久の乱によって、敗れた後鳥羽上皇らは厳しく処分されました。

首謀者である後鳥羽上皇は隠岐の島に配流されてしまいます。計画に関わった順徳上皇は佐渡島に流され、倒幕に反対していたとされる土御門上皇も自ら申し出て土佐に流されました。上皇方の貴族たちも流罪や死刑とされてしまいます。

彼らの味方をした武士の荘園も取りあげ、東国の御家人を配置しました。承久の乱以前には影響を与えることができなかった西国の荘園も、鎌倉幕府の配下に治めることに成功したのです。

承久の乱により武家政権がさらに盤石に

鎌倉幕府は、今後は朝廷が不穏な動きをしないように「六波羅探題(ろくはらたんだい)」も設置しました。六波羅探題とは鎌倉幕府の出先機関で、朝廷だけでなく西国の御家人の総括も行う部署のこと。六波羅探題の長は六波羅守護と呼ばれて、北条一門から選出されていました。

承久の乱によってもたらされたのは、北条家への権力の集中と武家政権の確立、幕府の支配領域の拡大です。

朝廷の力を取り戻したいと考えた後鳥羽上皇の願いもむなしく、朝廷の権力はさらに削られて北条一門が権勢を誇ることになります。

北条家の執権政治は承久の乱によって確立したともいえます。その後、北条義時の子ども、北条泰時(ほうじょうやすとき)によって、御成敗式目(ごせいばいしきもく)という日本初の武家法も制定されました。

後鳥羽の上皇の最期

隠岐の島に流された後鳥羽上皇は、都に二度と戻らぬまま隠岐の島で60年の生涯を閉じました。

「我こそは新島もりよ 隠岐の海の 荒き浪かぜ 心して吹け」

これは後鳥羽上皇が隠岐の島で詠んだ和歌です。

「私はこの島の新しい島守です。隠岐の海の荒い波風は、心して吹けよ」という意味であり、隠岐の島での後鳥羽上皇の寂しい気持ちが伝わってきます。

都の中心で権力を誇っていた後鳥羽上皇が、日本海の孤島でわずかな従者とともに暮らした心持ちを思うと胸が痛みます。

承久の乱でわかる立場によって異なる正義【教え】

承久の乱では、後鳥羽上皇側、鎌倉幕府側それぞれに正義がありました。

後鳥羽上皇にとって、日本を統治すべき朝廷がないがしろにされることは、許されることではありません。

一方で鎌倉幕府、北条義時、北条政子からすれば、自身らが築いた政権や所領を脅かし、平和を乱す後鳥羽上皇を排除することが正義でした。源家、北条家に従う御家人たちの安全を守ることは彼らの使命です。

結果的には承久の乱では鎌倉幕府が勝利し、後鳥羽上皇が敗北したため、後鳥羽上皇は隠岐に流され寂しい晩年を送りました。
後に鎌倉幕府の中枢によって編纂された歴史書「吾妻鏡」では後鳥羽上皇側の「反乱」として扱われています。一方で、天皇中心の歴史観が広まった明治・大正時代には鎌倉幕府・北条義時こそが天皇家に反逆した逆臣であり、後鳥羽上皇はその被害者であるとされることが主流でした。

私たちが生活を送る中でも、このことを常に気にとめておくべきです。

友達同士、家族同士で意見が対立したとき、「自分が絶対に正しい」と考えるのではなく、「相手も正しいかもしれない」と相手の意見に耳を傾けて、素直に聞くことができれば、無用な争いは避けられるかもしれません。

身の回りで喧嘩がおきたとき、意見が衝突して気まずい空気になったときは、一呼吸おいて、相手の立場になって考えて直してみると、きっとよい結果につながるはずです。

六波羅探題跡に行ってみよう

承久の乱のあとに、京都に設けられた六波羅探題。建物は残っていませんが「六波羅探題府跡」として石碑が残されています。

六波羅探題は、もともと平家の拠点でした。平氏が都落ちしてからは、源頼朝の居館が建てられ、京都守護としての庁舎も建築されています。

承久の乱を制圧してからも、北条義時らは六波羅の地に留まって事後処理を行いました。そして、六波羅探題北方、南方の二つの府がおかれ、それぞれに北条一門が任命されるようになります。

後年、足利尊氏(あしかがたかうじ)に六波羅探題が討ち滅ぼされるまで、平氏、源氏、そして北条氏の重要な拠点であった六波羅探題。平安末期から鎌倉幕府の衰退までを見守った場所と言えますね。

アクセス

名 称:六波羅探題府跡
住 所:京都府京都市東山区門脇町177

※情報は変更されている場合があります。

監修者プロフィール
門川 良平(かどかわ りょうへい)
教育コンテンツ開発者。教材編集者・小学校教員・学習事業のプロデューサーを経て、現在は、すなばコーポレーション株式会社代表としてゲーム型ワークショップや学習漫画、オンライン授業などの開発を行う。オリジナル開発したSDGs学習ゲームなどの教育コンテンツを軸に日本各地の自治体と連携を進めている。

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