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津田梅子とは何をした人? 女性の地位向上に奔走した生涯や功績を紹介

五千円札の新しい顔、津田梅子とは何をした人?

2024年に新しくなる日本銀行券。5,000円札の図柄に選ばれたのは津田梅子です。梅子は津田塾大学を創立した女性として知られます。

彼女はどのような人生を歩み、なぜ津田塾大学を創立しようと考えたのでしょうか。

津田梅子の生い立ち

梅子は幕末の1864年(元治元年)、東京の御徒町で誕生しました。当初の名前は「むめ(うめ)」。

父親は先進的な考え方の持ち主と言われる、農学者の津田仙(つだ せん)です。仙は子どものころから英語やオランダ語を学び、通訳として幕府に仕えていました。

梅子の人生は、父の仙によって大きく舵をきられます。6才のときに「岩倉使節団」の一員として親元を離れ渡米。以後11年間、アメリカの家庭で育ったのです。

6才といえば現代なら小学校1年生です。ピカピカのランドセルを背負っている1年生を 一人で海外に留学させることはちょっと想像ができないでしょう。

梅子がアメリカに渡ったのは1871年(明治4年)。1871年といえば郵便制度が開始された年です。ようやく国内での手紙のやりとりが便利になったという時代に、6歳の幼児が親と別れてアメリカに行く心細さは計り知れません。

梅子を岩倉使節団に入れようと考えたのは、父親の仙でした。仙自身が、1867年に幕府の遣米使節の通訳として渡米し、アメリカの農業や男女平等の様子を目の当たりにしています。

この経験が娘梅子の渡米を後押しすることになるのです。

津田梅子はなぜ岩倉使節団に参加した?

岩倉使節団の目的は、政府首脳による不平等条約の改正交渉、官僚や留学生よる欧米諸国の制度や技術の調査にありました。

伊藤博文や木戸孝允、大久保利通といった政府の首脳も同行しています。

梅子は「開拓使派遣留学生」の一員として10年間ものアメリカ滞在を計画していました。他の男子学生が2年で帰国しているなか、女子学生だけ10年も滞在した背景には、北海道の開拓を行っていた黒田清隆(後の内閣総理大臣)による尽力があったからだと言われています。

黒田も1867年に梅子の父、仙とともに渡米し、アメリカの女性の教育レベルや地位の高さに驚いたのだそう。帰国した黒田が女子教育の重要性を政府に説き、女子留学生の派遣が政府によって許可されたというわけです。

女子留学生の留学費用は、政府ではなく黒田の北海道開拓使から支払われています。当時、仙が北海道開拓使で働いていたため、黒田の女子留学生派遣計画の情報はすぐさまキャッチできていたと考えられます。

アメリカでの暮らし

当時、日本からアメリカに渡る交通手段は船のみ。梅子は「蒸気船アメリカ号」で約1ヶ月かけてサンフランシスコに到着しました。

それからワシントン近郊、ジョージタウンの「ランマン夫妻」の家で暮らすことになります。英語を流ちょうには話せない6歳の梅子はどんなに心細かったことでしょう。

ところが留学から2年後の1873年、キリスト教の洗礼を受けたいと夫妻に打ち明けるほど、アメリカの暮らしに馴染んでいました。

梅子は、フィラデルフィア近郊の教会で洗礼を受けたあと、初等教育を終え、8歳からは私立の女学校でフランス語やラテン語を学びます。

アメリカからの帰国と帰国後の苦悩

梅子の留学期間は1881年(明治14年)までのはずでしたが、本人の希望で1年間延長されます。そして翌年の7月、17歳になった梅子が帰国。

明治15年の日本といえば、ようやく日本銀行券が発行されたころ。女性の社会進出どころか、内閣制度がスタートするなど、近代国家としての基盤作りの段階にありました。

11年間もアメリカで暮らし、英語が堪能でも日本語が不自由な梅子に居場所はありません。男子留学生に職は与えられても、梅子には政府や開拓使から仕事が与えられることはなかったのです。

帰国後にランマン夫人に送った手紙によると、梅子は自分のことを「移植された木」と表現しています。居心地の悪さを感じていたのでしょう。

また国費で留学をしていたことから、国に恩返しをしなければならないとの義務感にも疲れていたようです。

また梅子は、アメリカの女性と日本の女性の地位の差にも驚きました。当時の日本人女性は、高等教育を受けることはできません。

梅子と一緒に留学した女子留学生の二人は、早々に結婚。のちに、梅子も何度か縁談をすすめられましたが、「話を聞くだけでもうんざりです」と断って一生結婚をしないと誓ったそうです。

華族女学校での教鞭と再留学

梅子は伊藤博文の家の家庭教師を経て、1885年(明治18年)に「華族女学校」の英語教師に就任します。

華族女学校(のちの学習院女子大学)は華族の女子に本格的な学びを提供する場所です。梅子は華族女学院で女子学生に英語を教えながらも、ふたたびアメリカへ留学することを夢見ます。

ただ、当時は6歳のころとは異なり、日本でも留学制度がしっかりと定められるようになり、男子学生であっても簡単には留学できない時代になっていました。

女性の梅子が留学することは非常に困難でしたが、留学時代のアメリカの友人の助力により、授業料の免除等を勝ち取って、華族女学校に在籍したまま渡米することが認められます。

期限は2年間。梅子が再度アメリカに渡るのは1889年(明治22年)、24才のことでした。

アメリカに渡った梅子はブリンマー大学に入学します。大学で質が高い教育を受けて、女性にとっての教育の重要性を再認識しました。

当時の梅子が学んでいたのは生物学です。1894年には梅子が執筆した「蛙の卵の発生について」の論文が学術雑誌に掲載されています。

また、人に物事を教える「教授法」についてはオゴウィゴー師範学校で学びました。

女性教育への思い、女子英学塾の創設

ブリンマー大学在学中、梅子は「日本婦人米国奨学金制度」を設立しました。自分のように学びたい女性の助けになればと考えたのです。

資金集めのための公園や募金活動を行い、2度目の留学から帰国したのは1892年(明治25年)のこと。ふたたび華族女学校に勤め、明治女学院でも教壇に立ちます。

その後も二回、アメリカやイギリスに留学して、「女性の地位向上のためには専門的な知識、学問が必要不可欠だ」との強い思いを強くします。

そして1900年(明治33年)、「女子英学塾」を創設。これまでのお行儀作法の延長のような学校ではなく、少人数方式のレベルが高い教育を目指した学校です。

初年度の入学者は日本全国から集まった10名の女性。女性たちは英語を学び、英語教師を目指しました。ここから日本人女性活躍の第一歩が踏み出されたといってもよいでしょう。

津田梅子の残した功績と名言エピソード【教え】

女性の地位の向上、女性の自立を追求し続けた梅子。彼女が残した津田塾大学は今なおその理念を受け継ぎ、「英語教育」「少人数教育」「留学・国際交流」の三つの理念を掲げています。

梅子は女子英学塾をひらいたときの挨拶で、「オールラウンドウィメン(all round women)」という言葉を残しました。

女子英学塾は英語を学ぶ学校でしたが、英語の習得のみならず視野を広い女性であるようにとの思いが込められた言葉です。

オールラウンドウィメンは、当時の女子学生に贈られた言葉でした。しかし、梅子ら先人の努力の甲斐あって、現代には男女が対等に力を発揮できる社会が実現されています。今や、すべての子どもたちに向けられた言葉と言えるでしょう。

視野を広く持って学ぶこと。そして一人の人間として自立して生きること。

苦労と困惑を繰り返しながら、女性の地位向上のために奮闘した梅子が人生を通じて表現したことは、将来のために何をすべきかと考えるとき、きっと役に立つはずです。

津田塾大学の発祥の地に行ってみよう

梅子が女子英学塾を開校したのは、千代田区一番町。現在は商業ビルが建築されており、当時の姿をしのぶことはできません。

津田塾大学発祥の地であることがわかるように、銀色のプレートが掲示されています。

周辺には皇居や駐日英国大使館、国会図書館などが点在しており、そぞろ歩きするのにぴったり。梅子の人生に思いをはせながら、歴史の重みをかみしめて歩いてみるとよいでしょう。

アクセスマップ

名 称:津田塾大学発祥の地
住 所:東京都千代田区一番町二七
※情報は変更されている場合があります。

監修者プロフィール
門川 良平(かどかわ りょうへい)
教育コンテンツ開発者。教材編集者・小学校教員・学習事業のプロデューサーを経て、現在は、すなばコーポレーション株式会社代表としてゲーム型ワークショップや学習漫画、オンライン授業などの開発を行う。オリジナル開発したSDGs学習ゲームなどの教育コンテンツを軸に日本各地の自治体と連携を進めている。

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