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戦国武将、上杉謙信とはどういう人物?敵に塩を贈ったってホント?性格や偉業を紹介

義を重んじた上杉謙信の性格と残した偉業とは?

「越後の龍」「軍神」…

上杉謙信(うえすぎけんしん)は、類い希なる戦の才能の持ち主であったと言われて高く評価されています。また、「敵に塩を贈る」という言葉のルーツとされる人物でもあり、義を重んじていた人物であったとも言われています。

上杉謙信の生い立ちと信仰

上杉謙信が生まれたのは1530年(享禄3年)。父親は越後守護代長尾為景(ながおためかげ)です。長尾為景は、守護や関東管領といったいわゆる上司と戦って勝利し、越後の国を治めていました。

当時、家臣が主君や、上の立場の人間を攻撃してその地位を奪うことは珍しいことではありません。長尾為景の治世になっても、越後には平和は訪れず、上杉謙信が生まれたころの越後では戦が絶えませんでした。

のちに長尾為景の葬儀が行われた際に、上杉謙信が「お葬式のときに甲冑を着けておかなければならなかった」と書状に書き残すほどの状態だったと言います。

上杉謙信が6才の頃、父である長尾為景が病気になり、家督を兄の長尾晴景(ながおはるかげ)に譲りました。上杉謙信は林泉寺というお寺に預けられ、ここで天室光育(てんしつこういく)というお坊さんから学問や武道を学びました。

上杉謙信はのちに毘沙門天を祀る毘沙門堂を居城に建立するなど、信仰に厚かったと言われていますが、信仰心は幼少時代に培われたのでしょう。

長尾家一族なのにどうして謙信が上杉姓を名乗るのか、不思議な方も多いと思います。実際、初名は長尾景虎(ながおかげとら)です。後年、上杉家の養子になったことで上杉姓となりました。

さらにその後、将軍足利義輝から「輝」の一字を贈られ、「輝虎(てるとら)」を名乗った時期もあります。謙信はさらにそのあとに称した法名を指します。ここではわかりやすいように、上杉謙信で統一してあります。

父の死亡と初陣

上杉謙信が11才のとき、長尾為景が亡くなります。家督を継いで国主となった兄の長尾晴景は、兄弟で協力して国を治めようと13才の謙信を栃尾城の城主に任命します。

現代よりも一人前とみなされる年齢が低い時代ではあったものの、13才というとまだまだ若輩者。近隣の豪族たちは上杉謙信を打ち払おうとして攻め入ってきました。

上杉謙信は、同盟を結んでいた武将の協力を得て、無事にこれを撃退。見事な初陣でした。

ところが、翌年にも再び戦が起きます。関東管領上杉家というもともと越後国を治めていた一族の家臣が謀反を起こして、長尾晴景の弟(上杉謙信の兄)を殺害したのです。

上杉謙信出陣の報を聞いた謀反人は降伏したものの、翌年、再度戦を起こします。上杉謙信がこの戦を制したことで、ようやく一時の平和が訪れました。

家督相続と合戦の日々

上杉謙信が19才のとき、兄の長尾晴景から家督を譲られて長尾家を相続します。越後の国に平和が訪れたものの、周囲の国の戦は治まりませんでした。

謀反を起こされたり、周囲の国の武将から頼られたりと、上杉謙信は毎年のように兵を率いて出陣しています。49才で亡くなるまでに上杉謙信が出陣した回数は70回を超えるとも言われ、驚くべきことにそのほとんどにおいて勝利をおさめています。

上杉謙信の功績は多くの軍功と領国の安定です。戦の能力は周囲の武将からも認められており、武田信玄の侵攻におののいた信濃国の武将たちは上杉謙信を頼っています。

かの織田信長も上杉謙信が生きているあいだは、同盟関係を結び敵対を避けていたほどです。

上杉謙信の領国経営

上杉謙信は戦上手の側面が語られがちですが、領国運営においても手腕を発揮しています。

越後では青苧(あおそ)が名産品でした。青苧は古くから衣服の材料として用いられていたもので、上杉謙信は青苧で作った布製品で他国と交易し、富を蓄えています。数々の戦には、交易ルートの確保という一面もありました。

春日山城に移動した際は、家臣や町民たちも引っ越しさせて、賑やかな城下町を形成しています。

12年にも及ぶ武田信玄との長い戦い

稀代の戦上手であった上杉謙信にも因縁の相手とも言うべき相手がいます。それが武田信玄(たけだしんげん)です。

武田信玄は甲斐国(現在の山梨県)を治める武将です。武田信玄は、領地を拡大するために信濃国(現在の長野県は)に侵攻していました。信濃国はまだまだ国内が統一されておらず、小規模な豪族たちは武田信玄の侵攻に対抗できません。

そこで助けを求められたのが、越後の上杉謙信でした。領国の統治に忙しい上杉謙信にとって、武田信玄の信濃国侵攻は捨ておくことはできない由々しき事態です。

川中島の戦い

やがて両者は、信濃国の川中島でぶつかり合うことになります。川中島の戦いは、天文22年(1553年)から永禄7年(1564年)の間に計5回、期間にすると12年間にも及びました。

といっても、12年間ずっと川中島で陣地を張って対峙していたわけではありません。また、すべての戦いで激しい攻防が繰り広げられたわけではなく、多くは小競り合い程度だったとも言われています。

ただし、4回目の八幡原の戦いは、上杉謙信と武田信玄が一騎打ちしたと言われるほど、激しいものだったと伝えられています。本当に一騎打ちがあったかどうかはわかりませんが、武田軍の軍師山本勘助(やまもとかんすけ)が討ち死にしていることからも、非常に激しい戦いであったことが想像できます。

上杉謙信と北条氏との争い

上杉謙信は、川中島の戦いの最中に、北条家との争いに参加しています。関東地方の戦国武将、北条氏康は関東管領上杉家と敵対しており、北条氏康の侵攻を恐れた関東管領上杉憲政(うえすぎのりまさ)が、上杉謙信を頼ったためです。

上杉謙信は上杉憲政の依頼により北条氏を討伐するため、関東へと出陣します。関東の大名を味方に付け、北条氏の本拠地である小田原城を攻撃しました。

これがきっかけで、北条方についていた武田信玄が北信濃へと侵攻。川中島での上杉謙信との4回目の戦いへと突入していったのです。

川中島の合戦の勝敗

上杉謙信と武田信玄の合戦では明確な決着は付きませんでしたが、のちに武田信玄が信濃国を手中におさめることになります。ただ、上杉謙信は信濃国の攻略に興味はなく、信濃国の豪族に頼まれて出陣しただけとも言われており、武田信玄による信濃国の支配が上杉謙信の敗北を意味するわけではなさそうです。

とはいえ、5回も相対しているわけですから、上杉謙信と武田信玄が宿敵であったのは間違いありません。

上杉謙信が敵に塩を贈ったエピソード

上杉謙信が生きた戦国時代は中央政権が機能しておらず、各地の武将たちによる分国支配が続いていました。

戦国大名たちの仕事は領地の維持、拡大だけではありません。領国内の人々が安心して暮らせるような国、町を作ることも彼らの仕事でした。

生活必需品の手配もその一つです。領主が直接交易をするというよりも、交易ルートの確保やルールの制定という形で、商人の取引をサポートしていました。

当時の生活必需品の一つといえば塩です。海がない甲斐国を本拠地としていた武田信玄は、駿河国(現在の静岡県)の今川家から塩を購入していました。

ところが、同盟関係にあった今川家に武田信玄が攻め入ってしまいます。これに立腹した今川家は、商人に対して「武田に塩を送らないように」と命じたというのです。

塩が届かなければ甲斐国の人々は困窮してしまいます。食料を保存することもできず、塩分不足だけでなく食糧難に陥ってしまうのです。

その窮状を耳にした上杉謙信が、甲斐国に塩を贈るように命じたという伝説が残されています。

先ほどもお話したように上杉謙信と武田信玄は宿敵同士。しかしながら、敵であっても困っているときは助けるべきだという義の心で、上杉謙信は武田信玄に救いの手を差し伸べたというのです。

上杉謙信は本当に敵に塩を贈ったのか

実は上杉謙信の塩についてのエピソードは、江戸時代の創作であるとも言われており、真偽の程は定かではありません。青苧の交易によって富をなしたビジネス感覚を備えた上杉謙信のことですから、敵に塩を贈ると聞いて多少の違和感も残ります。

実際、上杉謙信が敵に塩を贈ったことを裏付ける史料は残されておらず、歴史の事実であるとは断定はできません。上杉謙信が商人に対して、武田家に適正な価格で塩を販売するようにと命じたのではないかとする説もあります。

敵に塩を贈る伝説からの学び【教え】

ただ、創作や伝説であったとしても、後世の人々が上杉謙信に、戦国の世にあっても「義」を重んじた武将というイメージをもちたかった気持ちはわかります。

争いや裏切りがあふれ、弱肉強食の戦国時代にあっても一本筋を通した「義の武将」がいたという従来の上杉謙信像は、ある意味で人々の「願い」の表れなのかもしれません。

そういった願いは、戦国時代ほどではないにせよ、様々な意味合いでの衝突や対立が生じている現代社会においても同じでしょう。

例え、上杉謙信の塩のエピソードが真実ではなかったとしても、「敵に塩を贈る」という言葉が伝えるメッセージは現代社会においても心に留めておきたいものであることは間違いありません。

塩の道資料館に行ってみよう

塩の道とは海岸の町と山の町をつなぐ道のことをいいます。特に新潟県の糸魚川市から長野県松本氏までのルートは最も古く長い道だといわれています。

このルートは、北塩ルートといって上杉謙信が武田信玄に塩を贈ったとされる道です。地元では「千国街道」と呼ばれています。

糸魚川には「塩の道資料館」があり、千国街道の様子を今に伝えています。

アクセスマップ

名 称:塩の道資料館
営 業 時 間:9時00分〜16時00分
休 日:月曜日
料 金:大人400円、小学生100円
住 所:新潟県糸魚川市山口552
電 話:025-558-2202
※情報は変更されている場合があります。

監修者プロフィール
門川 良平(かどかわ りょうへい)
教育コンテンツ開発者。教材編集者・小学校教員・学習事業のプロデューサーを経て、現在は、すなばコーポレーション株式会社代表としてゲーム型ワークショップや学習漫画、オンライン授業などの開発を行う。オリジナル開発したSDGs学習ゲームなどの教育コンテンツを軸に日本各地の自治体と連携を進めている。

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