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平清盛とは何をした人? 功績とその生涯を紹介

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武士で初めて太政大臣となった平清盛の功績とは

平清盛(たいらのきよもり)は平氏繁栄の基礎をつくった人で、平忠盛(たいらのただもり)の長男です。

母を早くに亡くし、白河院(白河天皇の追号)に寵愛されたと言われる、母の姉にあたる「祇園女御」に育てられました。また、実の父親は、白河法皇(しらかわほうおう)であるとも言われていますが、確かなことはわかっていません。

平清盛が活躍した12世紀は、公家から武家へと主導権が移り変わろうとしていた時代。武家中心の世の中を作る立役者となった一人が平清盛でした。

また、日宋貿易のために瀬戸内海の航路を整えたこと、宋銭の輸入により貨幣経済を浸透させたことも清盛の功績です。世界遺産に登録された厳島神社を今の姿に改修したのも平清盛だと言われています。

政治面だけでなく、経済、文化においても後世に多大な影響を与えた人物と言えるでしょう。

平清盛の台頭

平清盛は、保元・平治の乱を足がかりに中央政治に進出しました。保元の乱は皇室と摂関家の内部抗争がきっかけで引き起こされた戦いです。保元の乱では、源義朝(みなもとのよしとも)とともに、後白河天皇(ごしらかわてんのう)のもとで戦い、勝利を収めます。

平治の乱では、保元の乱で味方同士であった源義朝を相手に戦うことになります。平清盛との待遇の差に不満を抱いた源義朝が、院政を始めた後白河上皇の側近だった藤原信頼(ふじわらののぶより)と手を組み、後白河上皇を幽閉して同じく上皇の側近の藤原通憲(ふじわらのみちのり)を亡きものにしたのです。

藤原信頼と源義朝は、平清盛が熊野詣に出かけた留守を狙って挙兵しました。熊野でその一報を聞いた平清盛は、すぐさま都に引き返し、後白河上皇を奪還する策を決行します。

藤原信頼に従うふりをして油断をさせたところで、後白河上皇を取り戻したというのです。平清盛が切れ者であることをうかがわせるエピソードですね。

後白河上皇を助けだした平清盛は、源義朝らを討ち取る命令を受け、彼らを討伐します。源義朝は逃亡している最中に部下に殺されてしまいました。これにより平清盛のライバルである源氏は壊滅的な打撃を受けることになります。

源氏は勢力を立て直すことができず、このあとしばらくの間、武家のトップとして平氏が君臨し続けることになります。

平氏一門の栄華

平治の乱で自らの地位を盤石にした平清盛は妹や娘を皇室や摂関家に嫁入りをさせて、急速に勢力を拡大し、朝廷での権威を強めました。そして1167年、平清盛は太政大臣に任命されます。

太政大臣はこれまでは公卿が任じられていた貴族のトップとも言える地位。武家としてだけでなく公家としての栄華も極めたことになります。

平氏の栄華は約20年間にわたって継続します。平氏による政権は、その居館があった地名を冠して「六波羅(ろくはら)政権」とも呼ばれています。

平清盛の勢力は膨れ上がる一方と思われました。しかしながら、1168年、平清盛は大病を患ったことがきっかけで出家することに。翌年には福原に居館を建てて、都から退きました。

不満の芽と源氏の挙兵

平清盛が出家してからも平氏の栄華は続きますが、後白河法皇との関係には変化がありました。1177年、後白河法皇の側近である藤原成親(ふじわらのなりちか)らが、後白河法皇を操って平氏の打倒をはかった「鹿ヶ谷の陰謀(ししがたにのいんぼう)」が発生したのです。

この事件後も平氏への反発の声が絶えなかったため、平清盛は1179年に後白河法皇を幽閉します。これによって、平氏の勢力はさらに増しましたが、源氏や皇室からの反感が強まることになります。

平清盛は平氏の権力をよりいっそう強めるために、自身の孫である安徳天皇(あんとくてんのう)を即位させました。すると後白河法皇の子どもである以仁王(もちひとおう)はこれに強烈な不満を抱きます。安徳天皇が即位したことで、自分が即位する望みが絶たれたからです。

そして1180年、以仁王は源頼政(みなもとのよりまさ)とともに打倒平氏をかかげて挙兵しました。以仁王は準備不足もあり宇治川で敗死してしまい、その願いは源氏一派に託されます。これが、木曽義仲(きそよしなか)や源頼朝(みなもとのよりとも)の挙兵につながるのです。

以仁王の挙兵の翌月、平清盛は福原への遷都を敢行します。平清盛は福原の地を好んでいました。清盛が整備した大輪田泊(おおわだのとまり)から近く、権力争いの渦中である都から距離があることが、その理由だと言われています。

ところがその2ヶ月後には源頼朝、さらに木曽義仲が挙兵。源頼朝の初戦である石橋山の戦いでは平氏が勝利しますが、その後の富士川の戦いには各国から源氏の武将たちが集結して、平氏は大敗を喫しました。

そしてその4ヶ月後の1181年2月、平清盛は64才で熱病を患い、死亡してしまいます。清盛の死後、たった4年で平氏は滅亡。清盛の孫、安徳天皇は清盛の妻時子に抱かれて壇の浦に身投げしたと言われています。

貿易、文化への功績

平清盛について語られるとき、平氏の繁栄をもたらした政治手腕に注目されがちですが、その裏には、平清盛が力を注いだ日宋貿易がもたらした富がありました。平清盛は宋との貿易の効率を高めるため、瀬戸内海の航路を整え、宋船が入港しやすいようにしたのです。

そのときに整備されたのが大輪田泊、現在の神戸港だと言われています。これもまた、平清盛の大きな功績といえます。

また、平清盛はきらびやかな院政時代の文化を担った一人でもありました。とりわけ厳島神社への信仰は深く、厳島神社に絢爛豪華な平家納経を納めています。厳島神社を寝殿造りに改修したのも平清盛です。その美しさは今なお訪れる人々を魅了してやみません。

大胆な策が日宋貿易成功の鍵?平清盛から学ぶビジネス感覚【教え】

のちに平家物語に描かれるような悪人のイメージがともなうことがありますが、平清盛は並外れたビジネス感覚の持ち主でもありました。

日宋貿易の推進

日宋貿易では、奥州の砂金、伊勢の水銀、志摩の真珠、薩摩の硫黄、刀剣や扇などを宋に輸出しました。宋から輸入したのは、宋銭や経典、陶磁器や書籍、お茶などです。

輸入品のなかでも、宋銭は人々の生活を一変させました。銭がなければ生活が成り立たないという風潮が急速に広まり、そのさまが疫病のようだったことから、「銭の病」と言われたほどです。

日宋貿易が栄えた理由の1つは、大輪田泊にあります。それまで博多に停泊していた宋船を、平清盛は大輪田泊まで入れるようにしようとしました。博多から陸路で荷物を運ぶより、都から近い大輪田泊に船を入れ、そこから運搬すれば格段に効率がよくなると考えたからです。

平清盛の狙い通り、宋船が大輪田泊に入るようになったことで、平氏の富は拡大しました。

日宋貿易を成功させるうえで、平清盛は大胆な策に打って出ました。取引きを円滑に進めるために、宋の商人に後白河法皇を引き合わせたのです。

当時、国のトップが外国人と面会することはありませんでした。こうした前例にとらわれない大胆な計画の数々が、日宋貿易を成功させる鍵になったのかもしれません。

大輪田泊のその後

平清盛に、貿易で財をなすビジネス感覚が備わっていたからこそ、一時の繁栄ではあったにせよ、武家、公家両方のトップに君臨できたと言えるでしょう。平清盛が築いた大輪田泊は、神戸港と名を変えた現在でも、日本で有数の貿易高を誇る港です。

平清盛の大きな功績は、日宋貿易による貨幣経済の加速、日本有数の貿易港の整備にもあったと言えるでしょう。

宮島にいってみよう

日本三景の1つ、宮島は平清盛と縁深い島です。

宮島には平清盛が大改修を行った厳島神社があります。厳島神社は世界でも珍しい、寝殿造りの海上社殿。厳島神社は1996年(平成8年)に世界遺産に登録されています。

平清盛は海の神様として知られていた厳島神社を深く信仰していたようです。平清盛が納めた平家納経(へいけのうきょう)は国宝に指定されているため、常設展示はされていませんが、複製を厳島神社の宝物館で閲覧することができます。

平清盛によって厳島神社の権威が高まり、その後も足利尊氏や足利義満、毛利元就、豊臣秀吉などが参詣しています。

宮島には厳島神社以外にも、平清盛の妻の亡骸が流れ着いたとされる場所に建立された「二位殿燈籠(にいどのとうろう)」や、平清盛の銅像もあります。宮島を歩けば、平清盛の息吹を感じられるかもしれません。

アクセス

名 称:宮島
住 所:広島県廿日市市宮島
アクセス方法:公共交通機関、自家用車のいずれの場合もフェリーを用いる

※情報は変更されている場合があります。

アクセス

名 称:嚴島神社
時 間:6時30分〜17時30分(2月、10月15日〜11月30日)
    6時30分〜18時00分(3月〜10月14日)
    6時30分〜17時00分(12月1日〜12月31日)
    0時00分〜18時30分(1月1日)
    6時30分〜18時30分(1月2日)
休 日:なし
料 金:大人300円、高校生200円、小中学生100円
住 所:広島県廿日市市宮島町1−1

※情報は変更されている場合があります。

監修者プロフィール
門川 良平(かどかわ りょうへい)
教育コンテンツ開発者。教材編集者・小学校教員・学習事業のプロデューサーを経て、現在は、すなばコーポレーション株式会社代表としてゲーム型ワークショップや学習漫画、オンライン授業などの開発を行う。オリジナル開発したSDGs学習ゲームなどの教育コンテンツを軸に日本各地の自治体と連携を進めている。

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